リサーチの技術番外編 日常とまちづくりにおける主語の使い分け
日常会話での主語と職業病
私には妻と子供二人の家族がおります。
それぞれが忙しく、なかなか落ち着いて会話する時間もないのですが、
食事の時間はできるだけ一緒にするようにしています。
何気ない家族の会話が展開されるわけですが、
私の頭の中では、常に「え?誰が?何を?」がリフレインされています。
恐らく、私以外の家族はなんら疑問を持たずに、なんのストレスもなく、
それぞれ何を話しているのかを理解していると思われます(たぶん)
私も一応は理解しています
特に何も意識しなければ特段の不都合はないのです。
しかし、一旦気になりはじまると止まらなくなるのです。
「え?誰が?何を?」
とうとう我慢できずに、妻と子供の話に割ってはいってしまいます。
「それ、主語はなに?」
その瞬間、家族から冷ややかな目線が浴びせかけられるわけです。
家族との会話では、既に登場人物や場など、ある程度共有済みのシチュエーションを前提にされることが多いですし、それぞれの家族のキャラクターも理解しあっているので、
「これは、この子が言ったことではなく、友達が言ったことだな」
と容易な判断のもとに話が展開されます。
ですから、主語を明確にしなくても会話は不自然なく成立し、いちいち確認するまでもないのでしょう。
(こんな風に家族の会話を分析しようとすること自体が職業病なのだと思いますが笑)
一方、私の場合、家族と共有できているシチュエーションが少ないこともあり、家族のキャラクターは理解していても、他の登場人物のキャラクターまではわからない…
さらに、そこに加えての職業病です。
黙って聞いていれば概ね理解できる会話でも、思わずきいてしまうのです。
「それ、主語なに?」と。
仕事における会話の主語
私の仕事は、コンサルタント・リサーチャーとしての調査・研究
まちづくり会社としてのまちづくりの実践
の二つがあります。
この時ばかりは、家族との会話脳からガラッと仕事脳にかわります。
リサーチャーの仕事して重要なこと。一言でいえば、
言う方、聞く方、それぞれでミスリードできない
ということです。
客観性・論理性が重要視されますので、
「誰が、何を」が明確になっていなければ、話しかけている相手にミスリードさせますし、
私の話している相手の言葉を私がミスリードしてしまうのです。
もし、ミスリードが起きれば(いわゆる勘違い)、各々の思い込みにより仕事が進み
その成果を突き合せた時に不幸が起こるわけです。
ですので、常に主語を明確にすることを意識します。
誰が行ったことなのか、誰が話したことなのか、の「誰が」さえわかれば、
その人物の指向性、キャラクター、性格、体格などから、ある程度の確からしさを持った様々な判断もできるのです。
私はこの訓練を30年近く行ってきました。
ですから、主語が明確になっていない会話はとても不安になってしまうのです。
これはまさに職業病でしょう。
まちづくりにおける主語
もう一つの大切なお仕事。
それはまちづくりを考え、実践することです。
先ほど触れたコンサルタント・リサーチャーとはまた異なる世界となります。
実は、「コンサルタント」と「リサーチャー」でも異なるのです。
一般的に、会話を行う場合、私が発する言葉の主語の多くは「私」です。
この「私」の頻度と強さがコンサルタントとリサーチャー、まちづくりでは異なってくるのです。
関係を表すと、以下のようなイメージです。
リサーチャー・・・「私」と「私以外」を言葉や文章の中で明確化
コンサルタント・・「あなた」や「あなたの組織」を主語として考え、「私」として話す
まちづくり・・・・「あなた」や「このまち」を主語として考え、それを主語として話す
リサーチャーの仕事では、
私はこう分析した。私はこう考える。
この論文ではこう言っている。このデータはこう示している。
など、「誰が」の明確性が様々な責任の所在を表すことになります。
「私の」分析が間違っていれば、「私の」のミスなわけです。
一方、コンサルタントの仕事では、
クライアントの問題課題を解決することが仕事になりますので、
常に物事は「あなた」や「あなたの組織」などを中心に考えられることになります。
その結果を「私」という主語に置き換えて話をしたり、文章を書いたりするわけです。
難しいのが、まちづくりの仕事の場合です。
まちづくりの場合には、コンサルタントとリサーチャーの仕事も含まれることが多いので、それぞれの場面において脳が使い分けをします。
しかし、根底にあるのは「このまち」「ここに暮らすひとたち」なわけです。
ここで暮らす人たちの暮らしやすさが・・・
ここで暮らす高齢者が安心して暮らせるように・・
このまちの産業が・・このまちの環境が・・・
ものを考えるときの主語、言葉や文章で表現する際の主語も、「私」ではないのです。
実は、このことがとても大切だと思っています。
多くの会話では、自然と「私」を主語にしながらも、「私」が主語であることを明示せずに話を進めていくことが多くあります。
「私は」「私が」を言葉に出さなくとも、明確に相手に伝え続けるられる人は、とても勇気が必要ですし、力強さを感じます。
一方、常に自分以外を主語として考えていることが伝わるような会話や文章は、優しさや寛容さが伝わってきます。
まちづくりの現場において私のような立場の人間がかかわる際には、「私」だけを主語としたものの考え方をした瞬間、そこにいる資格はないと思っています。
もっと言えば、まちづくりに参加いただいている地元の方々についても、「私」だけを主語としたものの考え方をし続ければ、いわゆる「合意形成」は不可能なのです。
自分に与えられた役割や機能によって、如何に主語の使い方を使い分けられるか、
それが勝負なのです。
ですから、常に相手の話でも「主語」を意識してしまう。
気になる⇒確認する⇒家族から冷ややかに見られる
ということになるのです。
これも仕方ありません。
むしろ、ここまで自分を訓練できた、と自分を誇りに思って
今日も家族との会話をしようと思います。
同じ境遇の方々、お互い頑張りましょう。
合同会社 鍬型研究所 代表社員
一般社団法人 タガヤス 代表理事
小沢 理市郎
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